無題1


 国語の授業は好きじゃない。大事なことを教えてくれないから。

「尾崎放哉という人、みなさんも名前くらいは知っているかもしれませんが、『咳をしても一人』で有名な方ですね、この人は実は東大法学部を出て保険会社で要職についたエリートだったんです。けれども酒癖と浪費がすごくて、無断欠勤とか借金を重ねて、遂には病気になってしまいます。彼は自由律俳句の仲間を頼って、小豆島に行き、病状が悪化するなか極貧生活を送って、ついには孤独に死を迎えます」

 先生が語る。私は関係ない話だと思う。私は東大には行かないし、エリートにもならない。ここは小豆島ではなく、丘の上の小さな高校で、海は見えない。

「放哉の有名な句をいくつかあげてみましょう。『咳をしても一人』以外だと、『いれものがない両手でうける』『こんなよい月を一人で見て寝る』『春の山のうしろから烟が出だした』最後は辞世の句ですね。死ぬ前の最後の句がこれです。放哉は貧乏なくせに自堕落で、酒飲みで、島の住民にも迷惑をかけてまわったから皆から嫌われていたし、才能を理解して手を差し伸べてくれる数人の仲間がいなければとっくにのたれ死んでしまっていたはずの人でした。というか、結局、病気が取り返しのつかないくらい悪くなってしまって、のたれ死んでいるんですけれど、彼の句というのは、そんな日に日に悪化してゆく体調や経済面とは裏腹に、どんどん凄みというか、切れというか、重みというか、そういうものが増してゆくんです」

 先生を見ていない。私は垣谷をみている。垣谷は私の席から見て桂馬の跳ぶ位置。眼をきらきらさせてこのつまらない話を聞いている。

 垣谷と話したことはほとんどない。彼女は背が低い。眼鏡をかけている。そばかすがある。授業で寝ているところを見たことがない。三人に一人が寝ているこの教室で、ただひとりうなずきながら熱心にノートを取っている彼女は痛々しい。

 気怠げなチャイムが鳴り、四限の現代文は中途半端に終わる。係の手によって、背面黒板に課題が書き足される。昼休みになる。

 垣谷はひとりでお弁当を食べている。誰かとお弁当を食べているところを見たことがない。進学校だからいじめはない。進学校でなかったら、いじめられていると思う。

 私は垣谷のお母さんが、朝早く起きてお弁当を作っているところを想像する。


 屋上は立ち入り禁止になっているけれど、生徒会室の横にある非常階段から簡単に登れることを私は知っている。

 今日、それを知っているのは私だけではないことがわかった。垣谷はコーラを片手に錆びた手摺りに体重をまかせた私と、戸惑いの色の眼で対面した。

 屋上で他の生徒と会うのは初めてではない。しかし、私はそこに垣谷がいることを想像していなかったし、垣谷と屋上という組み合わせは私の脳内でとっさに不穏なイメージを作り上げた。

 私たちは会話をしない。

 垣谷は私が来るまで読んでいたらしい、カバーの剥がされた文庫本を膝の上にふせてじっと黙っている。

 私は丘の下に灰色の町を見る。コーラをあけてひとくち飲む。

 垣谷が咳をする。

 咳をしても一人。つい数十分前に耳にしたばかりの自由律俳句がよみがえる。私は偶然だと思う。夕方には忘れているだろうと思う。

 垣谷は私をちらちらと覗いてくる。垣谷のほうを向いていないがそれはわかる。ここに視線を持つ存在はふたつしかなくて、そのうちのひとつは私だ。

 何。

 私は、私から声が漏れたと思う。グラウンドから、運動部の叫ぶ声が聞こえる。

 垣谷は動揺している。

 私は、垣谷をめちゃくちゃにしてやりたいと思う。私は、私がコーラの缶に爪を立てていることに気がつく。

 垣谷が狼狽えながら話しかけてくる。

 彼女の声は届かない。

 私は垣谷が犯されているところを想像する。いれものがない両手でうける。私は偶然だと思う。私は必然だと思う。こんなよい月を一人で見て寝る。私は垣谷を卑屈だと思う。私は、垣谷をめちゃくちゃにしてやりたいと思う。春の山のうしろから烟が出だした。

 私は、垣谷を不幸だと定義する。よって私は、私を幸福だと結論づける。私は、私は私を幸福だと思っていると思う。

 垣谷は会話することを諦め、錆びた手摺りに袖を預ける。あと何ヶ月かして、この学校を卒業する。もう会うことはないと思う。

 私はひとりで屋上にいる。


 丘の下には私たちの町が静かに午後を待っていて、私はその灰色が海に似ていると思う。